外題替えの恐怖

書籍のタイトルを考えることは、出版社の責務である。この出版局でも出版直前まで大いに議論することが多い。現在では背も表紙も、扉も奥付も、すべて同じタイトルというのが常識で、そうでないと読者も流通関係者も困ってしまう。

 近世から明治の初めまでの和本の世界では、外題換え(げだいがえ)は普通だった。本文冒頭のタイトルと、表紙の題簽(だいせん)のタイトルが違うのである。さらに見返(みかえし)のタイトルまで違うものがある。外題をかえるのは出版者の判断で、それでも本文のタイトルはそのままにしておくという棲み分けである。出版の統制と商業化のなか、この時期に広く見られる文化現象であり、著者の意図を反映した本文のタイトルを優先するのが現代の書誌学の立場である。

 似た現象は、書籍に元々タイトルがないことが多い古代の写本類では洋の東西を問わず出てくるし、そもそも表紙づくりは印刷物を手に入れた蔵書家の発注作業であった近代までの西洋でも普通である。外題換えとはそういうものかもしれない。

 話が長くなったが、現代で最も多い公式の外題換えは、人文社会科学系の博士論文かも知れない。何々期の何々地方における…」と時期やフィールド、調査手法などをタイトルを入れるのが博士論文の通例だが、多くの場合はこうした限定がタイトルから削除される。博士論文自体は国立国会図書館で閲覧可能で、各大学のウェブページでも原題や要旨など公開されるので、同じ書籍について刊行物と論文本体の二つのものが流通することになる。多くの博士論文は取捨選択や加筆がされて交換されるから別のものとも言えるが、やはり外題換えと同じような文化現象だろう。

 人文社会科学系の博士論文は、この出版段階で代表的な学会誌に書評が載り、さらに学会賞などの審査対象となることが多い。ここで得た定評が研究者本人に、これからついて回ることになる。
慎重な書評者や学会賞の審査員は、念のためにも博士論文本体と刊行出版物を照合することも、めずらしくない。

 寂しいケースは、とても着実な博士論文なのに、週刊誌の見出し並みの下品な外題換えが行われる場合である。「これで何々賞が狙えますよ」としたり顔で言う編集者もいると聞くが、羊頭狗肉ぐらいは簡単に見透かされる。こうした問題を指摘する学会書評も目にすることが多くなった。

 武蔵野美術大学出版局も、すこしづつ博士論文など、最先端の学術研究成果の公開の分野に乗り出していくことになるだろう。外題換えの責任をはじめ、ユニバーシティープレスの社会的責務を十分に考えて、進めていきたい。

(ケロT取締役)

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