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書誌目録

芸術理論
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2009年9月

ジョン・ケージ 混沌ではなくアナーキー

白石美雪(著)

前衛音楽家ジョン・ケージのリアル・ライフを検証
ジョン・ケージの音楽作品を音楽学者ならではの鋭い視線で分析。同時に、ブラック・マウンテン・カレッジやストーニーポイントなど、ケージと友人たちのリアルライフと時代の軌跡を追い、音楽家としてのケージに迫る。巻末には初演者情報など344曲(全作品相当)のデータを収録。ケージ作品の全容をこれほど詳細に文字化した書籍は本邦初。

ジョン・ケージ 混沌ではなくアナーキー
価格:3,360円(税込)
(本体価格: 3,200円)
日本図書館協会選定図書

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ジャンル
芸術理論
著者
白石美雪
体裁
A5判仮フランス装/320頁
ISBN
ISBN978-4-901631-89-1 C3070
目次
はじめに 音楽でなければならなかった

第一章 ブラック・マウンテン・カレッジ◎「終了学校」のはじまり
column01 ケージと信仰

第二章 ギャマットからチャートへ◎近代型コミュニケーションの破綻
column02 ケージの自筆資料

第三章 偶然性とラディカル・モダニズム◎音楽の「形式化」の果てに
column03 音楽の骰子遊び

第四章 無心と融通無礙◎二元論からの脱却
column04 マース・カニングハム・ダンス・カンパニー

第五章 ニューヨーク楽派と仲間たち◎新たなコミュニケーションの構築
column05 レクチャー・パフォーマンス

第六章 ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ◎行為としての音楽
column06 ケージのビジュアル・アート

第七章 不確定性の音楽◎メディア論への連接

おわりに 混沌ではなくアナーキー

主要参考文献
人名索引/曲名索引
ジョン・ケージ音楽作品表1931-1992

書評・紹介

  • 「レコード芸術」2010年1月号【注目の音楽書】欄で紹介されました。
  • ジョン・ケージについての本は数あれど、日本の書き手が1冊ぜんぶをケージにあてているのはごくわずかだ。そんななか、1980年代からずっとケージについて書きつづけ、いつになったらまとまった本をだしてくれるのかと大きく期待させつづけてくれた白石美雪が、やっと書き下ろしてくれた。全篇が詳しい論考になるか、あるいは作曲家の生涯をたどるものになるか、本を手にとるまでわからなかったけれども、そのどちらでもない、しかしどちらでもありつつけっして期待を裏切らない内容になっている。それはつまり、ケージという作曲家の思考をただ作品からのみ抽出することはまだできないということ、音楽と音楽をめぐる思考と、さらに音楽をパフォームする生身のヒトとを分離できるところまで、一定の時間のなか、そこでひびいている音、脈略なく生起する音と、回帰する沈黙とを、そこから遡って作曲家を仮構できるところには達していない。そのことを本書は示唆している。
    本書はけっしてケージの全体像を描こうとはしていない。むしろ40年代の後半から60年代と、ケージの生におけるごく一部を扱っており、著者もそれを強調している。しかし、この期間がケージにおいてどれだけ重要なものだったかは本書を精読する必要さえない。音楽における何らかの表現を目指していたところからの脱却、システマティックな作曲から、ひとつの音を決めるに際して何をする/しないかへと移行する時期である。それは、音楽が音楽以外の何ものかを代理=表象することの(不)可能性の自覚でもあると同時に、ケージにとどまることなく、いわゆる当時の「前衛」的な作曲家たちがいずれは問わなくはならない問いに面する時期でもあった。著者はケージの足跡をたどりながら、この問いと解決を丁寧に解説してくれる。それはケージについて一般的に「わかっている」かのごとく振る舞われていることを少なからず揺さぶるものであり、浅薄なケージ理解の陥穽をそれとなくでありながらもはっきりと見せるものであるだろう。かえす刀で、ヨーロッパ前衛音楽の不徹底、ヨーロッパ的閉域のありようをも暗示する。
    部分的にはとっつきにくいものではあろう。ギャマットやシステムといった考え方、アナリーゼの手法など、すっと理解できるとはかぎらない。ケージの作品を或る程度でも知っているほうがアクセスしやすいところだってある。とはいうものの、ケージや20世紀の「現代音楽」にのみ関心のあるひとばかりが読み手になるのではあまりにもったいない。ここには文字どおり、既存の制度、音楽なら楽音や音、さらには美術であるなら絵の具やキャンバス、木材や石といったマティエールからそのあるべきコンテクストをこそ根本的に考えなおす、捉えなおすことへの誘いがあるからだ。
    ジョン・ケージはまだ知られていない。無垢なところから、あらためてケージにアプローチする、その手掛かりを本書は確実に与えてくれる。(小沼純一)
  • 「朝日新聞」2009年11月28日【音楽展望(吉田秀和)】欄で紹介されました。
  • 時は、ふりかえってみると、恐ろしい速さで過ぎてゆく。その中で、今年読んだ本の中から音楽書3冊。どれも興味深かった。
  • 白石美雪さんがジョン・ケージの本を書いた。『混沌ではなくアナーキー』と副題にある通りの本(武蔵野美術大学出版局)。「ジョン・ケージ? ああ、あのピアノの前に座って何をするのかと思ってみていたら、四分三十三秒、何もしないでいたあと、いなくなっちゃた男の話だろう?」というだけで終わるのではなく、彼のした仕事、もしかしたら、し残した仕事のことまで、音楽学的厳密さと温かい人間的共感とで、作品の隅から隅まで調べて、丁寧に分析したりした本。「トラックの音、ラジオの雑音、雨や風、がけ崩れの音、モーターの爆音、心臓の鼓動などなどに至る千変万化のノイズをとらえたケージの耳について」の本。あの風変わりな作品の内部まで立ち入って、作品が体現している音楽的・非音楽的意味について考えている本。あとは無口の著者の人柄そのままで、余計なことは一つもない。彼女の最初の本。(以後略)
  • 「音楽の友」2009年12月号【新刊書評】欄で紹介されました。
  • おもしろい。とにかくおもしろい著作である。現代音楽の歴史を切り開いたジョン・ケージを長らく研究してきた著者が、ケージとつきあいながら一番楽しんでいるような、そんな一面さえ感じさせる。とはいえ白を基調としたしゃれた装丁の本書は、現代音楽の研究、批評で活躍してきた著者の積年のケージ研究の集大成となるずっしりと重い内容。気軽なエッセイ風の著作とはほど遠い、音楽学的な成果の反映でもある。 ケージの音楽とつきあうのはとても難しい。音楽学者が研究対象としてケージと向き合おうとしても、これまでの音楽学的なアプローチで全てが語り尽くせるとはかぎらないからである。序章でも述べられているように、本書では種々の語り口が混在している。ときにエッセイ風、または厳密な分析論、さらに同時代の芸術思潮や近現代のさまざまな叡智を援用して語っていくそのスタイルは、そのままケージ風の歩みともかさなってくる。本書はケージの音楽にならい、「線的な時間」を拒み、さらにはケージについて語りつつ、自らケージを媒介として、読者との新しいコミュニケーションをつくりあげている著作とも言えるかもしれない。こう考えていくと、本書がケージの歩みのなかでも40年代後半から60年代半ばまでのもっとも先鋭的な試みが行われた時代に論を限定したのもうなずける。この時期、ケージは東洋からの影響も受けながら、極限まで到達した西洋音楽の思考に転換をもたらした。そのあたりの歩みが丁寧に追われており、さらに同時期のブーレーズら前衛とケージとの近接点も指摘するなど、随所に含まれている記述は鋭い。 音楽批評家として著者は、その端正で錬磨された語り口には定評がある。本書はまさにそんな筆者ならではの批評と研究とが見事に融合され、新たなスタイルを切り開いた著作とも言えるのではないだろうか。(伊藤制子)
  • 「Sound & Recording Magazine」2009年12月号【Books】欄で紹介されました。
  • 本書は、ケージの<1940年代から60年代半ばまで、つまり偶然性を作曲に導入する直前の過渡的な段階から不確定性による音楽へと邁進していくまでの時期に限定>し、<「ケージの音楽」のおもしろさ>を伝えようとするものだ。内容は7章に分かれ、それぞれ異なる視点からアプローチしているため、必ずしも時系列に沿っていないし、<評伝に近い段落もあれば、分析に力点を置く章もある>。各章興味深い論議が山積みなのだが、特に面白いものを挙げてみよう。
    まず第2章で取り上げられた音楽技法<ギャマットgamut>。ケージの場合、これは<単音、重音、和音といった音群を取り混ぜて並べた…多様な音素材の集合>で、<そこから任意の音や音群を選んでは楽譜に書き込んでいく>ものだ。1940〜50年代に《四季》《四部の弦楽四重奏曲》で用いられ、<どちらかの和音がもう一つの和音へ解決するといった力関係>は生まれない。<音楽はそれぞれの瞬間に響いている音、音群のなかを漂っているような、優れて環境的な体験をもたらす>。第4章で1952年の《シアターピース第1番》が<東洋思想を手がかりにコミュニケーションの問題を乗り越えようとしていた>ケージにとって<自分の理念や感情を芸術作品に結晶させ、演奏者の解釈を通して、他者にそれを伝えるという近代音楽のコミュニケーションではなくて、一つのイヴェントにおいて自己と他者が相互に浸透しあいながら生を分かち合っていく>新しいコミュニケーション・システムの獲得につながった、という論議にもひかれる。このほか、フルクサスとの関連や、図形楽譜の読解などからも、関連するさまざまな人への広がりが感じられる。特にデヴィッド・テュードアは強力で、独立した1冊の評伝・分析本が望まれる。
    ケージを分析するとき驚くのは、あらゆる時代に、現代のアクチュアルな問題に対する挑発や指針が感じられることだ。本書は、音楽家だけでなく、すべてのクリエイターに薦めたい。
  • 「週刊オン★ステージ新聞」2009年10月30日号【書評】欄で紹介されました。
  • その音楽を聴くための最良の書物
  • 「ぼくの音楽はまだあまり聴かれていない」。あるDVDのなかで晩年のジョン・ケージがにこやかに語っていた。彼が亡くなってもう久しい。そのあいだに状況が劇的に変化したということはない。もちろん、現代のレパートリーに彼の作品はいくつか定着している(主に「ソナタとインターリュード」や打楽器作品など、偶然性以前のリズム構造、インド思想に影響を受けた頃の作品)。しかし「あまり聴かれていない」にもかかわらず、多くの言葉がケージに費やされてきた。その語りも主にケージの偶然性の思想に捧げられている。最も有名な「四分三十三秒」の禅思想との絡みなど、それらは具体的な作品理解と決して無関係ではありえない。しかし、ケージ受容は概してその思想に重点が置かれてきた。
    ケージの研究者である白石美雪の「ジョン・ケージ 混沌ではなくアナーキー」(武蔵野美術大学出版局、税込み三三六〇円)は、ケージ理解の不在を埋める語りによって、その音楽そのものの魅力を伝える貴重な、そして美しい書物だ。偶然性の作曲家ケージを「ケージ以降」、それ以前を「ケージ以前」としながら、ケージに対する語りが主に「ケージ以降」に偏っていることを踏まえ、「以前」と「以降」のいくつもの点を作品に寄り添いながら線へと結びつけていく。全体はコラムを挟んだ全7章(作品表を含む)からなり、一九四〇年代後半から一九六〇年代半ばまでの「発想の宝庫」と著者が呼ぶ時代を主に扱う。
    最も興味深いのは第一章から第四章と第七章。十二音技法からインドの思想への発展、そして偶然性、不確定性まで歩みで、具体的にはオーケストラ曲「四季」から「四部の弦楽四重奏曲」のギャマット手法の変化、「プリペアド・ピアノと室内オーケストラのための協奏曲」のチャートからチャンス・オペレーションズ、そして「易の音楽」から「四分三十三秒」「ピアノとオーケストラのためのコンサート」の禅の思想など、それぞれの鋭い分析や考察を通して、単に東洋思想への目覚めによる劇的変化ではなく、次第に二元論を越え、音を開放していくケージの音楽的発展に固有の位置を定めていく。また、第三章「ケージとラディカル・モダニズム」では、対極にあると考えられてきたブーレーズの「ストクチュール」とケージの「易の音楽」を「形式化の極点」として同時代性について語られ、同時に西洋の作曲家たちの偶然性の受容がもたらしたラディカル・モダニズムの矛盾もあぶりだされる。このほかにも第五章の「ニューヨーク楽派」、第六章の「ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ」での授業やフルクサスの誕生、また章の間に挟まれる小さなコラムなど、著者の独自の視点からケージへの言葉の欲望を隠さない。
    「混沌ではなくアナーキー」、その逆ではない。前に「ケージのアナーキーな偶然性の音楽はかれの理想とする世界観の表明であり、音と『沈黙』の過剰さの表面のなかにその姿を隠している」と書いた。白石美雪は音楽学者である前に、一人の聴き手としてケージの音の姿をまっすぐ見つめている。だからこそ「ジョン・ケージ 混沌ではなくアナーキー」は読み解きながらもケージの音楽を聴くための最良の書*物としてわれわれの前にある。 三橋圭介
  • 「intoxicate」(TOWER RECORDS)#82【知識の茶の間】欄で紹介されました。
  • 白石美雪、初の、ケージへの、音・音楽への愛情にあふれた単著。待望しただけの甲斐は充分にある。「ともすると、音楽の鳴り響きとは別のところに存在意義があったとされるケージ」を、著者は徹底して「音が鳴り響いている現場」を忘れずに、そして、たとえば美術でも文学でもなく、「音楽」なのかを追及してゆく。いわゆる評伝でもない作品論でもないし、初期から晩年までの思想を網羅するものでもないが、ケージの生/性、20世紀、アメリカ合衆国といった文脈を重ねることで浮きあがってくるものは大きい。(小沼純一)
芸術理論
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